アール・ヌーボーを代表する画家アルフォンス・ミュシャとその生涯

こんにちは、絵描きの榊幹恵です。
みなさま、お元気でしょうか。

今回は筆者が絵に興味を持ってから、早い段階でファンになった画家さんの一人、
アルフォンス・ミュシャについて書いていきたいと思います。

美しい女性像とその周りを飾る華麗な装飾に、小さい頃の筆者は魅せられましたね~。

ですが、ミュシャはそれだけでは終わらず、晩年に伝統的でアカデミックな手法を使って

「スラヴ叙事詩」という大作を20点も描き上げています。

 

ミュシャは、人も羨む一世風靡のポスター画家でしたが、

常に正統派の画家で在りたいという思いを持ち続けていたようです。

 

それでは、その生い立ちなどをご紹介していきます(^o^)

<参考図書>

東京美術『ミュシャ作品集―増補改訂版―パリから祖国モラヴィアへ』千足伸行 著

 

誕生からウィーン修行時代まで

アルフォンス・ミュシャは、

1860年7月オーストリア帝国領モラヴィア(現在はチェコスロヴァキア)

のイヴァンチッチェで誕生しました。

 

イヴァンチッチェは、モラヴィアの中心都市ブルーノから25キロほど離れた、

現在も人口1万人くらいの小さい町で、当時の一般家庭では明かりはローソク、

鉄道はまだなく旅行は徒歩、町中を裸足で歩き回る者もいたという状況でした。

 

ミュシャの父は裁判所で働く公務員で、母は粉屋の娘というごく普通の家庭で、

特段、芸術的才能があるという家系や環境ではなかったけれど、

幼い頃のミュシャは興味を持った物をなんでも絵に描いたといわれています。

 

ミュシャは他にも美しい歌声という才能を持っていて、

中学生の時に聖歌隊に抜擢もされ、当時は音楽家を志していましたが

15歳の時に声が出なくなり音楽を諦めました。

 

絵の道を選んだミュシャは、手始めにプラハの美術アカデミーを受験しますが

残念ながら不合格。

 

その後、ウィーンで舞台美術の助手という仕事を見つけ、

働きながら夜間のデッサン学校に通いました。

この時、ミュシャは19歳。

 

しかし2年後、会社の得意先の劇場が火事で焼失してしまい、

大幅に規模縮小する事になったためリストラされてしまいました。

 

職を失ったミュシャは、なけなしのお金で汽車に乗り、失意の帰郷をするのですが、

その旅の途中たまたま立ち寄った町で絵の才能が認められ、仕事が舞い込み、

思わぬ長期滞在になったのでした。

 

さらに幸運な事に、ミュシャの絵の才能は、この地方のある貴族に認められ、

近代(1900年前後)では珍しくミュシャはパトロンを得る事が出来たのでした。

 

そして、この貴族のからの援助により、ミュンヘン美術大学に入学することが出来、

美術アカデミー風の伝統的な様式による歴史画と宗教画を学び、卒業後

近代美術の中心地パリへの留学も叶ったのでした。

 

パリでの下積み時代

パリでは再びアカデミー・ジュリアンで学び、

その後またしても人気のアカデミー・コラロッシで学んでいます。

後者の方は、国立美術アカデミーの受験のための予備校的画塾ですが、

教授陣も一流の画家達が務めていました。

 

その頃のミュシャはパリの学生街で下宿し、

そのアパートの1階にある大衆食堂は、若い無名の画家達のたまり場となっており、

自分の作品を持ち寄って講評を求めるという、私的画塾のようになっていました。

ここで、本来なら画風にまったく接点のないゴーギャンや

アメリカから来たホイスラーなどと知り合い、友情を築いていきました。

<筆者感想>

日本で言うところの「トキワ荘」みたいな感じでしょうか(^^)


お金に余裕はないけど、仲間にも恵まれ

パリでの学生生活を楽しんでいる様子が伺えますね。

充実した学生時代を送れて、ちょっと羨ましいぞ~。

この時、ミュシャ29歳くらい。

 

いやしかし!この時代の30歳前後って、もういい大人なのでは?

このままでいいのか、ミュシャ。

という訳で、続きます。

 

 

貧しい学生生活から、偶然が重なりチャンスを掴むまで

 

パリに来てからも、ずっと貴族からの援助があったのですが、

2年後、打ち切られる事になりました。

 

一気に極貧生活に陥ったミュシャは、本の挿絵の仕事を始めて、

パリに居続ける事を選びました。

しかし、挿絵の仕事はたいした収入にならず、貧しい生活は続きました。

 

それからしばらくして、偶然が重なり大きなチャンスがやってきます。

ミュシャ34歳の時でした。

 

ミュシャ出世作『ジスモンダ』

それは1894年クリスマスの直前、ミュシャは印刷所で働いていました。

年の瀬という事で、主だった画家達は休暇でパリにいませんでした。

 

そこに、大女優サラ・ベルナールから電話があり

「元旦までに『ジスモンダ』のポスターを作って欲しい。」という

急な依頼が入りました。

 

繰り返しになりますが、その時その場にいた画家はミュシャだけ。

 

急遽、その夜、印刷所の主任とサラの芝居を見に行き、

サラの特徴と雰囲気をつかみ、そのデッサンを元に下絵を作製し見せたところ、

サラは大変気に入り「OK」を出したのが12月28日、

それから徹夜で作業してポスターが完成したのが12月30日。

そのあと元旦公演に間に合うように即座にパリ中に貼りだされ、

これが大評判となり、

 

ミュシャは一夜にして時代の寵児へとのし上がったのでした。

 

その後は、商業ポスター・本の挿絵・日用品の美術デザイナーなどで

数々の功績を上げていきます。

 

 

<筆者感想>

もうあれですね。

絵に描いたような成功ですよね、画家だけに。

あはっ♪(=゚▽゚)ノ

 

 

ミュシャが活躍した時代『ベル・エポック』

ベル・エポックとは「良き時代」という意味で、主に19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代の事を指します。

 

その最盛期は、1889年のパリ万博から1900年のパリ万博までで、

ミュシャはこの時40歳くらいでした。

 

この時代は、産業革命のお陰で、安価な製品が大量に出回るようになり、「お買い得」という意味のボン・マルシェ百貨店を筆頭に、現代に通ずる消費社会が確立しました。

 

ミュシャが描く商品や演劇などのポスターは、

当時の市民にとって憧れの生活への指針であった事でしょう。

<筆者感想>

エッフェル塔って1889年のパリ万博のために建てられたそうです。

今日知ったこの雑学、いつか飲み会などで唐突に披露したいデス。(‘ω’)ノ

「そう言えばさ~、パリのエッフェル塔って…」という切り出しで。

 

 

アメリカに渡航

ミュシャを語る時に、実はアメリカとの関係も切り離せません。

パリ時代後半から約6回、アメリカに渡航しています。

 

画家として新たな市場開拓というのもありますが、

一番の目的は「スラヴ叙事詩」制作のための資金作りであるといえます。

 

「スラヴ叙事詩」とは、ミュシャにとって愛する故郷のチェコとスラヴ民族の伝承と歴史をテーマに、太古の時代から1918年チェコ独立までを、テンペラと油彩で描いた絵画です。

 

親交のあった有力者の紹介で、アメリカの大統領はじめ政財界の大物達と知り合い

彼らの肖像画などを描いたのも「スラヴ叙事詩」作製のための人脈作りでした。

 

ボストンではボストン交響楽団が演奏するスメタナの「我が祖国」を聴き、

より一層故郷への思いを強めました。

そして、余生をスラヴの歴史と文化のために捧げる決心をします。

 

そんななか、アメリカの富豪チャールズ・クレーンと知り合い、

大のロシア・スラヴ贔屓だった彼から

「スラヴ叙事詩」作製のための資金援助受ける事に成功しました。

 

ミュシャ50歳、祖国に帰る

財政的な心配のなくなったミュシャは1910年に故郷のチェコに帰郷します。

スラヴ叙事詩制作のため、西ボヘミアのあるお城の一部をアトリエとして借ります。

 

1914年~1918年 第一次世界大戦

 

スラヴ叙事詩制作期間中に第一次世界大戦が起きます。

これによりチェコは、約300年続いたハプスブルグ家の支配から独立し、

新生チェコスロヴァキア共和国として歩み始めます。

ミュシャはこの時、紙幣・切手などをほぼ無償でデザインし、

新しい国のために尽力しました。

 

1926年 ミュシャ66歳 スラヴ叙事詩が完成する。

制作期間20年間、最大の作品で6×8メートルあり、全20作

ミュシャの画家としての後半生の全力を注いだ作品です。

 

1928年 「スラヴ叙事詩」を故郷チェコに贈呈

この年、ミュシャとパトロンのチャールズ・クレーンは、20点の巨大な「スラヴ叙事詩」を

チェコ独立10周年を記念して、プラハ市に常時展示用スペースを確保する事を条件に

チェコ国民およびプラハ市に贈呈し、

ヴェレトゥルジュニー宮殿(プラハ国立美術館)で展示されました。

 

しかしこの時代は、第一次世界大戦頃に起こった、

アヴァンギャルド(前衛・先駆け・革新的)全盛期で、

ミュシャの描く伝統的な技法の歴史画・宗教画は、

巨大で空しい時代錯誤な絵画として酷評されたそうです。

 

1939年 ナチス・ドイツによって故郷チェコスロヴァキアが解体される。

この時ミュシャは「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由で、

ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に拘束され尋問を受ける最初の一人となりました。

後に帰宅を許されましたが、80歳近くのミュシャには大きな負担となり、

同年7月14日プラハで78歳の生涯を閉じました。

 

1960年代以降に再評価

 

1939年9月1日~1945年9月2日第二次世界大戦

 

大戦後1960年代からミュシャの功績と「スラヴ叙事詩」が再評価され

モラヴィアのクルムロフ城で全20作品が展示されていましたが、

ここは交通の便が良くなく、人の目に触れる事は少なかったそうです。

 

2012年からやっとミュシャとパトロンのクレーンが望んだプラハ市での展示が叶い、

つい最近になって2026年に「スラヴ叙事詩」

常設展示施設の開館が決定したとの事。

 

1928年の約束が98年後の2026年に果たされる予定になった訳ですね。

とても感慨深いです。

 

まとめ

ミュシャの画家としての人生は

前半生は、アールヌーボーを代表するポスター画家として

後半生は、故郷チェコの文化に全てを注ぐ油彩画家として、

晩年であっても衰えることなく大作を発表していきました。

 

1894年、一躍時代の寵児へと躍り出たミュシャですが、

その後もずっと第一線で活躍できたのは、

努力の積み重ねと精進の賜物なんじゃないかと思います。

 

筆者がミュシャに興味を持ったのは、パリ時代のポスターの方でした。

小さい頃は漫画好きだったので、エレガントなアメコミ風に思えたミュシャのイラストは、

馴染みやすかったんですよね~(*^。^*)

 

スラヴ叙事詩の方は、この記事を書くにあたって初めて詳細を知ったのですが、

制作期間20年、作品の大きさ、確かな画力、仕事の丁寧さなど、

どこをとってもチェコへの愛に溢れているのを感じ、

記事を書きながら涙ぐむこと数回あり(´;ω;`)ウゥゥ

 

この絵が完成した時、時代の空気に合っていなくて酷評され、その後も冷遇されたそうですが、

2つの大戦を潜り抜け焼失することなく現存しているのは、

この絵を大切に守った人々がいるからだろうと思うと、

また98年後に果たされる約束の事を考えると、

もう涙が止まらないのでした。(T_T)

 

 

それでは今回は、このへんで

また次回お会いしましょう。